コンパクトデジカメからミラーレス一眼まで現在様々なカメラがあり、女性でも気軽に写真を楽しめるようになりました。
そんな中、写真を使って作品を作り続けるアーティスト・林ナツミさんにお話を伺いました。
ナツミさんの写真の師匠であり『本日の浮遊』制作上のパートナーでもある原久路さんにも同席いただき、作品制作について語っていただきました。
ナツミ:
わたしは幼いころからボタンを押すのが好きで、例えば公衆電話のボタンとか、タッチパネル式になる前の昔のATMに並んでいたボタンとか、気に入ったボタンを見つけると何度も押しては感触を味わっていました。
小学校低学年の頃、父がNikonのF-501という一眼レフのフィルムカメラを買ってきたのですが、このカメラのシャッターボタンの押し心地が天下一品で、わたしはそのボタンを押したくて父のカメラに触れさせてもらっていました。
だからわたしとカメラとの最初の出会いは写真を撮ることではなくボタンを押すことから始まったと言えます。
その後、少しずつスナップ写真を撮るようになりましたが、小学校の間は父のカメラを貸してもらえず、使い捨てカメラを使って色々な写真を撮りました。小学校4年の時、4つ下の妹が小学校に入学したので、妹に新品のランドセルを背負わせてさまざまなポーズをつけ、花瓶の花と一緒に構図をアレンジしたりしながら、大量の記念写真を撮りました。長時間にわたって拘束された妹には災難だったかもしれませんが(笑)、これはわたしにとって初めてのまとまった写真制作でした。
中学生くらいになると、わたしは写真を撮るために父のカメラを貸してもらえるようになり、その後も高校、大学、大学院と、趣味として継続的に写真を撮り続けました。特に意識したわけではありませんが、学校の写真部などに所属することはなく、個人的に撮り続けました。
そして3年ほど前から、知人の紹介でアーティストの原久路さんの写真作品制作のアシスタントをするようになりました。本格的にデジタル一眼や機材の使い方を学んで実践するようになったのはそれからです。
ナツミ:
わたしは写真を仕事にしているという意識は薄いかもしれません。今は写真を使っているけれども、いつか写真以外の方法で作品をつくる可能性もあるからです。
わたしはもともと自分のウェブサイトで写真日記を公開したいと考えていたので、原さんのアシスタントになって写真を実地で学ぶようになると、その知識をウェブサイトで活かしました。カメラマンとしての仕事を受注できるようになりたいという発想はなくて、自分のウェブサイトで何かを表現するためにアシスタント経験を活かしたいと考えました。撮りたいものが決まってくるにつれて、必要な知識をより具体的に教えてもらうようになりました。
原:
ナツミさんにアシスタントをお願いするようになって少し経ったころ、ナツミさんからウェブで写真日記を始めたいが、まずカメラは何を使ったらいいかと聞かれたました。色々な基礎を覚えるにはなるべく画質や性能が高いカメラに触れるのがよいので、当時の上位機種ではありましたがCanonのEOS 5D Mark2を奨めました。
交換レンズはわたしのスタジオにあるものを使えば色々な画角を覚えられますし。それでナツミさんは早速そのカメラを購入して、ウェブ日記に写真をアップするようになりました。
ナツミ:
インターネットで作品を公開している理由は、わたしの作品は誰かに見られることで初めて完成すると考えているからです。
ひとたびインターネット上で公開された写真は、国境を越え、文化を越えて、さまざまな社会のさまざまな人たちに見られる可能性を持ちます。わたしはその可能性をとても大切にしたいと考えています。
原:
ナツミさんの『本日の浮遊』プロジェクトは彼女のウェブサイト「よわよわカメラウーマン日記」で2011年1月1日から始まりましたが、「よわよわカメラウーマン日記」自体は2009年に開設されています。浮遊シリーズに着手する以前から、ナツミさんは写真をインターネットで公開することに対して、趣味とは一線を画する姿勢で臨んでいたようです。『本日の浮遊』スタート以前の作品はスナップ写真が中心ですが、瑞々しく色鮮やかな写真がたくさん掲載されています。
ナツミさんはインターネットで写真を公開することで作品をたくさんの人と「シェアする」という発想を初めから持っていたのだと思います。撮影した写真をどう発表するかは、例えばギャラリーで展示するなど色々な方法がありますが、彼女の場合はインターネットの特性を活かして「シェアする」ことが重要だったといっても良いかもしれません。
ナツミ:
インターネットには実質的な国境がありません。その国々の事情によってはインターネットが自由に使えない場合もあるので100%そうとは言えないまでも、わたしたちが物理的に移動するのに比べれば、国境は無いに等しいと思います。
そして写真というメディアは、そもそも言葉による説明を要しない側面を持っているので、国境を越えてシェアするのになかなか適したメディアです。
とくにわたしの浮遊シリーズは「重力」をテーマにした写真作品なので、どんな国の、どんな体制の、どんな気候に属する地域の人でも「見ればわかる」可能性があります。重力は国境だけでなく文化的な差異すらも越えて、地球上のどこにでも存在しますから。
ナツミ:
わたしは幼い頃、両親と出かけても手を離すとすぐにどこかへいなくなってしまうような、落ち着きのない子どもでした。興味を引かれるものを見つけると後先の考えなしに駆け寄ってしまう子どもだったようです。
大人になってもその特性は根本的には変わらなかったようで、親からはよく「地に足を着けた大人になりなさい」と言われました(笑)。でも、大学に進み大学院を出ても、きちんと進路を決めて「地に足を着ける」ことはできませんでした。
『本日の浮遊』プロジェクトはわたしのそうしたコンプレックスから始まったという一面があります。
「地に足を着ける」つまり「実利的で着実な生き方をする」という慣用表現は、日本語だけでなく英語や中国語にも同じものがあることをその後知りました。
重力の存在を受け容れて生きること、つまり「地に足を着けること」と、社会的なさまざまなくびきを受け容れて生きること、つまり「実利的な生き方ができる大人になること」とは、文化の違いを越えて同じ慣用句で言いあらわされているんです。
原:
ある日、彼女のウェブサイトのコメント欄に実にさまざまな言語による書き込みがありました。英語、ロシア語、中国語、韓国語、アラビア語、フランス語、スペイン語……。
インターネット上のサイトで翻訳してみると、みな口を揃えて、「あなたの写真を見るとストレスが解消される」「今日も一日頑張れる気がする」といった内容だったので驚きました。国や文化を越えて同じような感想が書き込まれていたのです。
「重力」の存在がいかに普遍的であるかを思い知りました。
ナツミ:
インターネットを通して作品を「シェアする」ことでエネルギーのフローが生まれ、わたし自身が次の作品を作るためのエネルギーをもらえるような気がしています。
ところで、ジャンプの瞬間を捉える写真は昔からあるんです。人はみな肉眼では捉えられない瞬間を写真に撮りたいという願望があるようで、すでに19世紀の後半に感光材料の感度がある程度高くなったころから、ジャンプ写真に限らず、様々な瞬間を捉える写真が撮られるようになっています。例えば疾走する馬の四つ脚が同時に地面を離れる瞬間はあるのかという議論に決着をつけたのは、高速シャッターで撮影した馬の写真でした(写真の中で馬の四つ脚は宙に浮いていました)。
わたしとしては、21世紀の今あえてジャンプ写真を撮るからには、19世紀当時とは違った見方でジャンプ写真を見ることができれば面白いなと考えています。つまり、「ジャンプの瞬間」を撮っていながら「浮遊の状態」を撮ったように見える写真です。「ジャンプ」を「浮遊」に変換して見る、その見方をたくさんの人とシェアしたいわけです。なので、わたしの浮遊写真を見てくれた人がもし「いいジャンプだ写真だ」と言ったら、わたしの作品としては失敗なんです(笑)
原:
疾走中の馬の四脚がすべて浮いていることを19世紀に証明したのはエドワード・マイブリッジでした。彼のように「事実」を証明するために写真メディアを用いるという考え方は、その後の写真技術の発展を一気に促しました。ありのままの事実を捉える、ときには肉眼では捉えられない事実まで証明する、それは絵画には決してできないこととして、まさに写真メディアの存在意義を世界中に広めることになりました。しかしながらこうした写真メディアのあり方は、写真表現の可能性を長い間一面的に縛ってもきました。
だから『本日の浮遊』のコンセプトはとても現代的だと思います。「ジャンプ」という事実が写真の中で変換されて「浮遊」になる、つまり、ありのままの事実を変換してしまうメディアとして写真を用いるわけですから。
たとえばわたしが若いころ、つい30年前の1980年代ですら、写真というメディアは事実を捉えるためのものという考え方が主流でした。だからもし当時のわたしがジャンプの瞬間を撮ったら、たとえコンタクトプリントの中に「浮遊」に見えるカットがあったとしてもボツにして、よりジャンプらしく見える写真ばかりを選んだに違いありません。
ところがナツミさんのOKカット選びでは、躍動感あふれるジャンプ写真が次々とNGとして省かれ、最終的には彼女の跳躍のエネルギーが全く見て取れない、着地すら予感させない、ふわふわした写真がOKカットの座を占めることになります。
ナツミ:
この写真はイタリアの古い城下町で偶然入ったカフェで撮りました。
『本日の浮遊』には、ジャンプの瞬間が浮遊に変換されるという重要なコンセプトがまずありますが、もう一つ、「一期一会の瞬間をのこす」という大切なコンセプトがあります。
浮遊写真は、必ずしも街に出て行って撮らなくても、スタジオ内でデジタル合成しても撮ることはできます。でも私は必ず現実の空間の中で浮遊写真を撮りたいんです。なぜなら現実の中で撮影された浮遊写真には、二度と繰り返されることのない一期一会の瞬間が含まれるからです。わたしは浮遊写真の撮影場所を探すとき、この点を強く意識するようにしています。日記プロジェクトとしての『本日の浮遊』にふさわしい、わたしの日常に起こった「一度限りの瞬間」を写真にのこしたいんです。
その意味では『本日の浮遊』を撮るためだけにわざわざお膳立てをして出かけるということはありません。『本日の浮遊』の撮影は、例えば原さんのアシスタントとして打合せに行くことになったとき、その合間に行うことがとても多いのです。仕事の合間に偶然ちりばめられた瞬間、それこそ一期一会の瞬間だという気がしています。
この写真は、原さんの仕事でたまたま行くことになったイタリアで一期一会の瞬間をのこしたくて撮った一枚です。観光ならもっとイタリアらしい場所で撮ったかもしれませんが、仕事のために乗用車で長距離を移動中にふと立ち寄ったカフェ、歴史的な町並には不釣り合いな自動販売機がたくさん列んだカフェが、私にはとても魅力的でした。
ナツミ:
そうです。
東京という都市は、街並みの変化のサイクルがとても早いと感じます。ついこの間まであった風景がある日突然姿を消し、真新しい駐車場に変わっている、ということが頻繁に起こっています。わたしはそんなとき、浮遊写真でのこしておけばよかったのに!という後悔の念に襲われます。
わたしは東京でも海外でも、ランドマーク的な場所ではあまり撮影しません。名もない裏道や路地、空き地などで撮ることが多いのですが、そうしたロケーションのなかには撮影後に姿を消してしまった所もたくさんあります。東京は、消え去った街並みの記憶が幾重にも堆積した、思い出の集合体のような都市ではないか、という気さえしています。
ときどき、私の写真をインターネットで見てくれる人の中に、以前東京に住んでいて今は遠方に転居した人がいて、「『本日の浮遊』を見ると懐かしさに胸を締め付けられる」というコメントをいただくことがあります。また外国人で一時日本に滞在したことがある人から、「『本日の浮遊』に写っている路地を見て東京に戻りたくなった」というコメントをいただくこともあります。
ナツミ:
写真という言葉はまさに「真実を写す」と書きますが、わたしの作品制作では、写真が真実を写さないことがあるという点に着目しています。これはネガティブな意味ではなく、写真を視覚的表現手段の一つとして考えた場合に、写真にはカメラの前の事実がそのまま写るとは限らず、事実に反するものが写ることもある、という「写真表現の幅広さ・ふくよかさ」に着目しているわけです。そのふくよかさによって、カメラの前で行った「ジャンプ」が「浮遊」に変換されて写る可能性が出てくるわけです。
さらに、写された写真は見る人によってさまざまに解釈される可能性があります。だからわたしはジャンプの時、できるだけ顔を無表情にして、見る人それぞれが感情移入しやすい写真になるよう心掛けています。わたしの方でこう見てほしいと決めて撮るのでなく、見てくれた人のそのときのメンタリティーに沿って、どのようにでも解釈できる浮遊写真を撮ろうとしています。
また『本日の浮遊』を日記形式にしているのは、日記として浮遊写真を積み重ねることで、「ジャンプの事実」に反する「浮遊の事実」が、日記の中でなら信憑性を増していくかも知れないと感じるからです。
たとえすごい浮遊写真が1枚あっても、それだけでは事実としての説得力に欠けますが、日記として数百枚の浮遊写真が揃っていたら、本当に浮遊しながら生きている人間がいるかもしれないという世界観が信憑性を増すような気がするんです。
もちろん本当に浮遊できる人間がいるわけはないのですが、「本当」と「嘘」という判断基準だけではない、もっと柔軟な世界観を自分の中に根付かせていけたらいいなと考えています。真実は一つではない、ということを常に意識していたいですね。
(『本日の浮遊』は2011年の架空の日記として綴られているため最新の日付が2011年になっているが、365日分のコンプリートを目指して現在も更新を続けている)
原:
今ではデジタル技術が進み、新聞の第一面を飾る報道写真ですらデジタルカメラで撮影されています。デジタルであるからには画像を加工して報道の事実をゆがめてしまうことも可能なわけですが、倫理的にそれは許されないことになっている。その一方で新聞を数ページめくったところに掲載されている全面広告では、デジタル加工オンパレードの写真が堂々と使われている。われわれは毎日毎日、加工された写真とそうでない写真を大量に見せられているわけですが、どの写真に「本当」を見てどの写真に「嘘」を見るかは、最終的にわたしたち自身の判断に委ねられていると言っていい。
そうしたわたしたちを取り巻く写真の現状を、ナツミさんは一歩引いたところから冷静に見ていて、ある意味でその状況を逆手にとって、あたかもデジタル合成されたような「浮遊写真」を合成なしで撮り続けています。彼女が本物の浮遊人間かそうでないかは、わたしたちの判断に委ねられていると言える(笑)。
ナツミ:
確かに、わたしが『本日の浮遊』の制作で第一に貫きたかったことは、撮影現場で実際にジャンプにして撮るということでした。
実際にジャンプの瞬間を捉えたにも関わらず、まるでデジタル合成したかのような浮遊感が醸し出される写真、わたしたちが写真を見る時に無意識に判断している「嘘」と「本当」が逆転するような写真を撮ってみたかったんです。
原:
たとえばデジタル合成によってつくられた広告写真の場合、写っているのはすべて演出され捏造されたフィクションですから、こうした広告写真は単一構造であると言えます。
ところが、ナツミさんの作品の場合、写っているのはすべて事実でありながら、「ジャンプ」の事実だけが「浮遊」に変換されるわけです。そして背景に写り込んでいる「町並」や「雑踏」はなんら変換されず事実として見られるわけです。結果的に「非現実」と「現実」とが一枚の写真の中に二重構造をつくる、これが『本日の浮遊』の最も面白いところではないかと思います。日記という形式がその二重構造をさらに補強していると思います。
ナツミ:
写真家やアーティストを目指す方にはそれぞれのやり方があると思うので一概には言えませんが、私自身は固定観念にとらわれずに写真を撮っていきたいと思っています。
たとえば、写真を撮るときは自分でシャッターを押さなければいけない、という固定観念にとらわれないように心がけています。『本日の浮遊』の撮影では、私は自分でシャッターボタンを押さず、原さんに押してもらっています。その方が私自身の負担が減り、構図やポーズなど、色々なことを客観的に判断できるようになるからです。
またわたしは、技術的なことについても固定観念にとらわれないよう心がけています。たとえば浮遊写真はぶれているとジャンプに見えてしまうから高速シャッターが必要ですが、気分的にぶれた写真をとりたくなったときは、あえて撮ってみることにしています。その結果新しいアイデアに出会うこともあると思うのです。カメラは機械ですから、使いこなすためには技術的なルールを守る必要がありますが、でもそのルールに捕らわれて色々なタブーを作ってしまうと、やはり自由な発想で写真を撮ることが難しくなるような気がするんです。
まず自分がやってみたいと思うことが見つかったら、固定観念にとらわれず、自分のイメージを実現するために自由な発想でトライしていきたいと思っています。
原:
写真で作品を作るときに、作家本人がシャッターボタンを押さなければいけないという決まりはありません!
たとえば映画の制作現場で、映画監督が常に自分でカメラを回さなければいけないとしたら不便この上ないですし、オーケストラの指揮者が自分で楽器の演奏もしなければいけないとしたら良い演奏は生まれませんよね。映画監督も指揮者も、作品のクオリティーを最大限に高めるための「マネージメント」を担うことによって、その責任を果たしています。
ナツミさんの制作姿勢もそれに通じると私は考えています。そしてこの姿勢は作家として非常に正しい姿勢だと思います。なぜなら、作品は作家本人の肉体的な限界を超えて、作家の寿命をも超えて、空間的・時間的により広範に世界に受けとめられていく可能性を持っています。その可能性をより大きく羽ばたかせるには、作家が個人的な自我に捕らわれず、たとえばナツミさんのように「シャッターボタンを他者に委ねても構わない」という姿勢で制作に臨むことはとても有意義だと思うのです。
ナツミ:
『本日の浮遊』は1年365日分の架空の日記をコンプリートすることを目指しているわけですが、今ようやく半分まできたところです。ですから今後の活動と言っても当面は『本日の浮遊』をやりとげることが目標です。
ただ『本日の浮遊』の中で少しずつ新しいことに挑戦し始めています。その一つがステレオ写真です。
『本日の浮遊』をステレオ写真で撮る頻度を増やしていきたいと考えています。
ステレオ写真は、人間の左右の眼に相当する2台のカメラを使って、わずかにアングルの異なる2枚の写真を同時に撮影し、それらの写真を立体的に観賞する写真です。(マジカルアイのように裸眼で寄り眼をして立体視したり、専用のビューワーで立体視するなどの方法があります)
ただこの写真の撮影では常に機材が倍必要なんです。カメラも2台、レンズも同じのを2本、三脚もしっかり固定できる頑丈なのが2台…すべて倍必要なので、いつでも撮影できるように持って歩くにはとても思い荷物になります。でも、誰もやらない非効率なことをやるほうが面白い作品が生まれそうな気がして、最近はいつもすごい機材を抱えています。
原:
ナツミさんにとってステレオ写真は、「ジャンプ」という事実が「浮遊」に変換されるのと同じく、2枚の平面的な画像が見方によって突然立体的に、3次元の奥行きを持って目の前に立ち現れてくるところが作品のコンセプトとして重要なのだと思います。2次元が3次元に「変換」されることこそ重要だとナツミさんが言うのを聞いて、なるほどと納得しました。
それで、以前の倍の量の機材を持ち運ぶことにも納得しました(笑)。
ナツミさんは最近、夜中にスローシャッターでステレオ写真を撮るということに挑戦しました。スローシャッターだと必然的にジャンプの動きはぶれて写ります。これまでは高速シャッターでジャンプの動きを静止させることで浮遊感を狙ってきましたが、とても面白い結果になりました。ステレオ写真の3次元的な奥行きの中で、被写体がぶれた状態で空中に静止しているんです。あたかも心霊現象を目の当たりにするかのような、とても不思議な視覚体験を味わわせてくれます。
林さんのお話の中で特に印象深かったのが、「固定観念にとらわれないで自由な発想を持つことが大事。」という言葉です。
「こうしなきゃダメ」とか「こうあるべき」と思い込んでしまうと、それ以外の道や方法が間違っているような感覚に陥りますが、本当はもっと自由でいいのかも知れません。
もし夢に向かう道に行き詰ってしまっている人がいたら、林さんの言葉を思い出してみてください。そして自分が固定観念に縛られていると感じたら、リラックスして、自由に考えてみてください。
もしかしたらそこから新たな活路が見いだせるかも知れません。
今回林さんにお話をうかがって、つくづく写真とは「一期一会の瞬間」をのこすためにあるんだな、と納得がいきました。
人生で出会うさまざまな瞬間、過ぎ去ってしまったら二度と戻ることはできない瞬間。人がシャッターを押すのは、そんな瞬間を形にのこしたいからかも知れません。
わたしもこれからは取材の写真を撮るとき、「一期一会の瞬間」を噛みしめながらシャッターを押したいと思います。
皆さんもぜひ、一期一会の人生の瞬間を捉えてみてください。